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2009年9月19日 (土)

quatre septembre

秋、ですねー。

芸術の秋、読書の秋、食欲の秋、ってなんでもありの秋。

今日は読書の秋関連で、僕の最も好きな作家といっても過言ではない大崎善生さんの小説から恒例の印象に残ったフレーズを。

村上春樹の世界観は深すぎて正直よくわからない、でも最近流行っている小説は文学としての味わいが少ない。そんな風に感じている方がおられたら大崎善生さんはおススメです。

大崎さんの中にもおおーっ;と唸りたくなるすごい暗いようななんともいえないものもありますが、今回はかなり読みやすく、味わいもあるものを。

今回は四つの短編からなる「九月の四分の一」から。

一切、内容に関して知りたくないという方はここ止まりで、また読んだあと来ていただければと思います。

”報われざるエリシオのために”より

中学や高校が上の学校に進んでいく過程なのだとしたら、僕は大学という場所に目的を求めていた。社会へ進む過程ではなく、ここで僕は何かを探しそして深く掘り下げその何かについて知りたかった。それがたまたまチェスという学生にとっては無用なものだっただけのことなのだ。

この先に一体何があるのかも本当はわかりもしないのに。行く先も見えないのにレールだけは続いているの。

”ケンジントンに捧げる花束”より

目的と場所が精度のいい金具のようにきっちりと嵌っていれば、過ぎていく時間は大抵楽しいものになる。

”悲しくて翼もなくて”より

歌が好き。
このたったひとつの言葉の前には、僕ら男四人が驚くような大音量を振り絞って立ち向かっても敵いはしないのかもしれない。

歌は何かの起点に過ぎない、それを完成させるのは聴いた人間の感受性なのではないか。

ただ言えるとすれば、二十代、三十代を過ぎて、そこから遠ざかれば遠ざかるほどに鮮明に見えてくる過去が存在するということである。

”九月の四分の一”より

誰でもそうだとは思うが、少年の日の夢はいつでも傲慢で気楽なものである。自分が抱いた夢と、現実が大きく乖離していったとしてもそんなに痛痒は感じない。淡くて儚くて、そして罪のないものである。

自分がしゃべることをやめた瞬間に、この世界の中で何かが崩れ去ってしまう、あるいは世界の一部分が果てしない暗闇の中に吸い込まれてしまう。世界を吸い込もうとしている吸入口を必死に両手を当てて塞いでいる、そんな感じで彼女は口を動かし続けた。

いつの日か僕は小説が書ける。
その言葉が、胃の底のあたりに小さな炎をともした。

断片と断片を溶接したのは、時間という当時の僕には想像もできないものだったのだ。

僕が気がつくかどうか、その偶然に委ねたのだ。自分で何かを決めることも、僕に何かを決めさせることも怖かった。だから、小さな偶然に託したのだ。

残像であるがゆえに、より鮮明に心に投射し続けるということもある。残されたビルよりも、壊されたビルをより強く思うように。

小説が書けなかった頃、確かに僕は苦しかったのかもしれない。しかし、それはそれで僕はふわふわと自由だった。

**************

いくつか削りましたが、こんなところでしょうか。

流れのなかで出会うからこそのフレーズかもしれませんが、もしどれかひとつでもみなさんの心に響いたのならとても嬉しく思います。書いたのは僕ではありませんけど(笑)でも何かを共感できるということはやはり嬉しいものです。

九月の四分の一は大崎さんの中でもかなり好きな小説でして、何年かぶりに再読して今の自分が印象に残っているものをここに載せました。

もし、興味が湧いた方がいればぜひ読んでいただきたいと思います。

また、現在この小説と対をなすようなもの「ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶」も再読中につき、またこんな感じでアップする予定です。

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